大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和27年(あ)5675号 判決 1954年5月28日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人寺田四郎の上告趣意第一点について

所論引用の当裁判所の判例によると、有罪の言渡をするにはどの証拠でどの事実を認めたかを明らかにする必要があるけれども、必ずしも各犯罪事実ごとに個別的にこれを認めた証拠の標目を示さなければならないわけではない、数個の犯罪事実について数多の証拠の標目を一括して掲げて説明しても判文と記録とを照し合せて見て、どの証拠でどの事実を認めたかが明白であるかぎり違法ではないというのであって(昭和二五年(あ)第一〇六八号、同年九月一九日第三小法廷判決、集四巻九号一六九五頁参照)、所論引用の東京高等裁判所の判例は右当裁判所の判例によって変更されたものといわなければならない。そして原判決の判断は右当裁判所の判例の趣旨に合致するものであるから、判例違反の論旨はその理由がない。

同第二点について

論旨は要するに事実誤認、単なる法令違反の主張であって刑訴四〇五条所定の上告理由にあたらない。

なお記録を調査しても本件につき刑訴四一一条を適用すべきものとは認められない。

よって刑訴四〇八条により主文のとおり判決する。

この判決は論旨第一点に対する裁判官小谷勝重の反対意見を除き、裁判官一致の意見によるものである。

裁判官小谷勝重の意見(上告趣意第一点に対する反対意見)は次のとおりである。

一、刑訴三三五条一項の「証拠理由」(証拠の標目)の判示程度に関する論旨引用の第三小法廷判例(下掲三の(二)の(2)の判例)は、論旨の如く解すべきものではなく、それとは反対の趣旨のものであることは、下記その後の同法廷判例の判示に照し明らかである(下掲四の三の(二)の(3)の判例。なお、更にその後になされた三の(ハ)の判例。各参照)。そして本件判決(即ち多数説)は右第三小法廷の態度見解を是認するものであるところ、私は右第三小法廷判例及び本件判決である多数意見に反対の意見を有するものである。

二、「証拠理由」に関する旧刑訴以来の規定の変遷と、その規定は次のとおりである。

(イ)  旧刑訴第三六〇条一項

有罪ノ言渡ヲ為スニハ罪ト為ルヘキ事実及証拠ニ依リ之ヲ認メタル理由ヲ説明シ法令ノ適用ヲ示スヘシ

(ロ)  戦時刑事特別法(昭和一七年二月法律第六四号)第二六条

有罪ノ言渡ヲ為スニ当リ証拠ニ依リテ罪ト為ルヘキ事実ヲ認メタル理由ヲ説明シ法令ノ適用ヲ示スニハ証拠ノ標目及法令ヲ掲クルヲ以テ足ル

(ハ)  旧刑事訴訟法事件の控訴審及び上告審における審判の特例に関する規則(昭和二五年一二月最高裁判所規則第三〇号)第八条

(判決書の簡易化)裁判所は、有罪の言渡をするに当り証拠により罪となるべき事実を認めた理由を説明し法令の適用を示すには、証拠の標目及び法令を掲げれば足りる。

(ニ)  現行刑訴第三三五条一項

有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない。

三、以上に関する判例の傾向は次のとおりである。

(イ)  旧刑訴に関するものは、

大審院の判例を検出するまでもなく、旧刑訴時代は当該採証証拠の部分内容(被告人及び証人の供述又は公判調書の記載内容、鑑定書の内容、その他書証の内容等)を一々摘録判示していたことは周知のとおりである。

(ロ)  戦時刑事特別法に関するものは、

「戦時刑事特別法第二六条ニ所謂証拠ノ標目ヲ掲クルヲ以テ足ルトハ証拠内容ノ如何ニ拘ラス其ノ標目ヲ羅列スルヲ以テ足ルノ義ニ非ス単ニ証拠内容ノ写録説明等ハ之ヲ省略シ得ルモ猶如何ナル証拠ノ如何ナル部分ニ依リ判示事実ノ如何ナル点カ証明セラレタルカノ合理的基礎ヲ推知シ得ル程度ニ指示特定セラルルコトヲ必要トス。」(昭和一九年(れ)第四四五号、同年一〇月一二日大審院第一刑事部判決、大審院判例集二三巻一八号二〇九頁)

(ハ)  旧刑事訴訟法事件の控訴審及び上告審における審判の特例に関するものは、

「本件については、旧刑事訴訟事件の控訴審及び上告審の審判の特例に関する規則八条が適用されるから、控訴審判決が証拠により罪となるべき事実を認めた理由を説明するには、証拠の標目を掲げれば足りる。……そうして、証拠の標目を掲げることによる証拠説示については、判文上証拠と事実との関連が明らかでなくても、記録と照し合せて見て、どの証拠でどの事実が認定されたか明らかであれば足りるとするのが、当裁判所の判例である。(昭和二五年(あ)第一〇六八号同年九月一九日第三小法廷判決、集四巻九号一六五九頁。昭和二五年(あ)第七七三号同二六年四月一七日第三小法廷判決、集五巻六号九六三頁)従って、所論のような大審院及び東京高等裁判所の判決(私註、前掲大審院判例及び次の東京高等裁判所の判例)を採用して原判決を攻撃しても、判例違反の主張として採用することはできないしまた原判決を記録と対照すると、証拠と事実との関連が明らかであって、なんら証拠説示上の違法は認められない。」(最高裁判所第三小法廷、昭和二六年(れ)第二三九六号、同二七年二月二六日判決、判例集不登載)

(ニ)  現行刑訴に関するものは、

(1) 「有罪の言渡をするには、どの証拠でどの犯罪事実を認めたかを明らかにする必要がある。数個の犯罪事実の証拠として数多の証拠の標目を一括して掲げてある場合に、どの証拠でどの犯罪を認めたかが判文上明らかでないときは違法である。(東京高等裁判所昭和二四年(を)新第一〇三一号、同年八月二三日第十二刑事部判決、高等裁判所判例集二巻一号五九頁)

(2) 「有罪の言渡をするには、どの証拠でどの事実を認めたかを明らかにする必要があるけれども、必ずしも各犯罪事実ごとに個別的にこれを認めた証拠の標目を示さなければならないわけではない。数個の犯罪事実について数多の証拠の標目を一括して掲げて説明しても、判文と記録とを照らし合せて見て、どの証拠でどの事実を認めたかが明白であるかぎり、違法ではない。」(最高裁判所第三小法廷、昭和二五年(あ)第一〇六八号、同年九月一九日判決、判例集四巻九号一六九六頁)

(3) 「論旨第二点の刑訴三三五条一項の解釈については、すでに当裁判所の判例として、『第一審判決は証拠の標目を一括挙示しており、従って判文上は証拠と事実との関連性は明らかでないが、記録と照らし合せて見ればどの証拠によってどの事実が認定されたか極めて明白である』場合は刑訴三一七条及び三三五条一項に反するものではないと判示されている(昭和二五年(あ)第一〇六八号昭和二五年九月一九日第三小法廷判決)。そして、本件第一審判決の証拠理由の説示を見ると、右判例にいうように、記録と照し合せて見れば、どの証拠によってどの事実が認定されたか極めて明白である。従って、本件事案としては、第一審判決のような証拠の標目挙示をもって刑訴三三五条一項に違反するものとはいえないばかりでなく当裁判所の判例の趣旨にも反しないものである(論旨引用の大審院及び東京高等裁判所の判決は、当裁判所の前記判決に抵触する限り判例として効力を失ったものである)。」(最高裁判所第三小法廷、昭和二五年(あ)第七七三号、同二六年四月一七日判決、判例集五巻六号九六四頁)

四、私の意見

旧刑訴も新刑訴も所謂「証拠裁判主義」(旧刑訴三三六条、現行刑訴三一七条)を採用していることはいうまでもない。されば数個の犯罪事実が一個の判決によって判示される場合、どの事実はどの証拠によって認めたかが判決書によって明瞭であることが必要であることは必然の要請である。旧刑訴三六〇条一項はこれを明らかにし、もって旧刑訴時代は先にも記述したように、採証証拠の内容部分を一々摘録判示されて来たのである。しかるに戦時中における事件の輻輳、戦後の司法制度の改革による上級裁判所殊に最高裁判所の上告審としての事件審理上の要請により、既掲戦時刑事特別法二六条及び旧刑事訴訟法事件の控訴審及び上告審における審判の特例に関する規則八条は何れも右旧刑訴三六〇条一項に対する例外的特例として証拠の標目主義を採用したのであり、現行刑訴三三五条一項は右一時の特例の主義を恒久制化して遂に証拠標目主義の原則制を採用するに至った。

しかし、根本において証拠裁判主義を採用する以上は、右証拠標目主義もその根本精神に背馳しない限度においてこれを確守されるべきこと当然であって、数個多数の犯罪事実ある場合、どの証拠がどの事実の証拠の標目であるかが判文によっては確知することができないような判示では右にこたえたものとはいうことができず、刑訴三一七条同三三五条一項の法の精神に背馳するものといわなければならぬ。第三小法廷判例及び之を是認する本件判決の多数意見によると「数個の犯罪事実につき数多の証拠の標目を一括して掲げても、判文と記録とを照し合せて見て、どの証拠でどの事実を認めたかが明白である限り刑訴三三五条一項に違反しない」というのであるが、一々記録と照合を要するのでは、裁判所には判るであろうが、記録を持たない被告人側にはどうにもならないことであって、到底承服し難いところといわねばならない。法はかかる不明確と煩労とを容認するものとは考えられない。訴訟法は裁判する者の側に便宜なように解釈すべきものではない。それはどこまでも「事案の真相を明らかに」(刑訴一条)するためのものであり、それに添うように解釈運用されねばならない。即ち新刑訴が一々証拠の内容部分を摘録判示した旧刑訴の証拠内容判示主義を改めて、証拠標目掲出主義を採用したのは、多くの説明を要するまでもなく旧刑訴三六〇条を改め、判決書の簡易化を狙っただけのもの(前掲旧刑訴事件の上級審の審判の特例規則八条冒頭の括弧見出し註参照)であって、判決や証拠の不明化を認容したものではない。或は証拠の標目主義では矢張りその証拠の内容部分は記録によらねば判らないのであるから、五十歩百歩の議論であると云う者があるかも知れないが、判決書で各事実ごとに整然その証拠の標目が掲げられてあるのと、何れの事実の証拠か不明に雑然と羅列してあるのとでは、記録要否の程度に既に差異があり、精神的にも将た判決書延いて裁判の威信にも拘わることであって、これらは裁判を受ける側の立場に立って考えれば事の理非当否は明瞭である。また判決書作成の事務的技術面から考えても、雑然慢然の列挙よりも事実を遂い証拠を合せて挙示することが事務というものの本来の約束であり、また却って能率的であり、裁判を受ける者も納得できるわけである。判決書の作成という仕事の分野は多分に事務的のものであるから、事務は事務らしく秩序正しく作成されねばならない。又このことは、証拠標目の省略を許されるのではなく、ただ列挙するか雑記するかだけであるから、一挙手一投足の労である。雑挙主義は証拠を軽んじ、時に不明確な証拠を採って有罪に処する恐れなしとしない。少なくともその疑を受けるに足る場合があり、延いて裁判の威信にかかわるものである。

以上情理何れから考えても之程見易い道理を何故最終審であり指導審である最高裁判所が以上の態度を採らねばならないであろうか、到底首肯し難いところである。刑訴規則二一九条等は右判例を維持する資料とはなるものではない。

以上のとおりであって、私は刑訴三三五条一項の解釈は、前掲大審院の判例(三の(ロ)の判例)及び東京高等裁判所の判例(三の(ニ)の(1)の判例)の各態度が正しいと思う。従って右第三小法廷の判例を是認する見解の下に立つ本件判決の多数意見には私は賛成できないのである。よって右第三小法廷の判例を改めるため本件は事件を大法廷に回付し、その評議に附すべきものであることを主張する。

なお、上掲の私の意見は刑訴三三五条一項の「法令の適用」についてもまた同様の意見を持つものである。(けだし自然犯ならばまだしも、経済犯等法定犯において、多数の事実につきただ雑然と適条を羅列するが如きは、何れの事実の適条か判文上全く不明の場合がある。之では判決書とはいえないのである。)

(裁判長裁判官 霜山精一 裁判官 栗山茂 裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 谷村唯一郎)

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